超える

今日は仕事において
「自分の限界までやる」を
徹底することが出来た。

案の定、
「今までの自分」=頭が
限界だと思ってたレベルに来ると
頭の中で
もう無理だとか
脈絡ないことを考えたりだとか、
目の前の仕事から目を逸らさせよう、
逃げようとさせる反応が起こった。

それでも、
そうなる時は
意識のピントが散漫になっている時だと
気付いて、

目の周りの緊張した意識を目の奥へ。
見る時は眼窩を意識することに
変えて

落ちて虚ろになった胸は
胸骨を引き上げて
崩れた姿勢を戻して
《胸から先に動く》ことに
意識を集中させた。

そうして体側を整える事で
散漫になった意識を
「今やっていること」に一点集中させ、
「今までの限界を」超えることが出来た。

昨日までの自分を、今の自分が超えていく。
これを続けるんだ。


失敗は当たり前

うまくいかないことを
予め含みこむ

自分の調子が悪い時
"うまくやろう"ということばかりに
気を囚われてしまう。

うまくやろう、という考えは
どこから来たんだろう?
そう考えることで
逆に萎縮してしまって
失敗するのに。
なおかつ、"うまくやろう"は
その場限りの対処になりがちだ。

失敗して笑われた、怒られた体験
それによって自分が傷付いたこと
これらが元になって
"うまくやらないといけない"
が出来上がっている。

しかし
"うまくいかなくて当たり前"だと
考えられないだろうか?
挑戦は失敗ありきだ。
それどころか
日常、ありのままで居るだけでも
うまくいかないことだらけだ。
それを当然のこととして
受け入れてしまって生きて
いけないだろうか?

"うまくやれないから駄目"ではなく
当たり前のこととして
柔軟に失敗を受け入れる。

心(からだ)を開く

自分から心を開くにはどうするか?
胸を上げて下腹部と引っ張りを感じる
全体を連関させた姿勢を保つこと
その姿勢で聴けば
からだ全体、頭だけでなく
皮膚、耳、下腹部での感覚も総動員した
聴き方が出来るはず。

そして
その際のコツは
頭を空っぽ、"ゼロ"にしておくこと
話を聴く最中に自分の意見や判断を
差し挟まないこと。
先ずは相手の意見を"丸呑み"にしてから、
自分の体感を通して考え抜くこと

プラスマイナスゼロ

相手を全肯定する。
自分の判断を差し挟まず、
自分ではない相手のこととして
相手からのものを全てを受け入れてみる。

相手の意見は喉で止めない
胸で止めない
下腹でも止めない

下腹まで下ろして
背中から抜く

これが体感としての全肯定だと感じる。
これを鍛える。
途中で緊張するのは
自分の人としての幅が狭いから、
自分という軸が出来てないから。

そして
全肯定は同時に自分自身にも当てはまる。
自分の感情を一旦、全て受け入れなければ
本音の自分自身が
表面の自分自身に無視されたままだ。

自分の奥から沸き上がる感情こそ
世間や会社、常識という
ちゃちな価値観で作られた
表面の意識で
良い悪いなどと判断してはダメだ。

でないと
素の自分に戻れない。
目的は一つ
出来る限り素の自分でいること。
感情や思考がプラスにもマイナスにも
揺れながら
でもその都度ゼロの素に戻ること。

記憶と身体

記憶は身体に刻まれている
のではないかと思う。

ふとした時に記憶が再生される。
「思い出づる」時、
自分の場合はその時、その場面の
自分視点からの映像と、
身体が感じた体感が再生される。

体感の再生は
明らかに身体の変化として
表れている。

それら映像と体感それらの内
言語化されたものだけが
脳で扱われているのではないか?
と思う。

記憶とは
普段生きていて、
体外体内から受け取っている
情報のうち
自分にとって意識化されたもの
ピントが合っちゃったもの
に限られているのではないか?

無意識には
自分が接するもの全てから
情報を得ているとすると
その大きな氷山の一角に
過ぎないものが
記憶の範囲ということになる。


怒りや悲しみを抱えた家族の中で
育つと、
恐怖や不安という記憶が
身体に溜め込まれているということ。
ということは
現実という巨大な氷山の中で
意識は怒りや悲しみ恐怖や不安を
想起させることにピントが合いやすい
状態になっているのではないか?
という疑問がある。

本当は自分の汲み取り方次第で
自分自身を成長させていける体験かも
知れないのに。

先ず自分

何故、自分は他者に無関心だったのか?
大人たちが喧嘩に明け暮れる
家庭環境があって
他人とは関わりたくないと思って
生きて来た。

他人と関わるのは
いつ口撃されるのか?
いつ嫌われるのか?
恐怖、不安だらけだった。

だから
他人と話す時に
体がギュッと緊張する癖がある。
またどんな人の前でもありのままでいる
ということが出来なかった。
どんな人に対しても防御を
とってしまう自分がいる。

しかし、これは他者との関係の中で
生きていく際に大きな障害となった。
一番際たるものは恋愛だろう。

自分の身を守る事にしか
関心がなかったから
相手を思いやる想像力に欠けていた。
相手に自分のありのままを
さらけ出すことが出来なかった。
そんな人間の恋愛が上手く行くはずもない。
いつも距離がある自分に対する
苛立ちから喧嘩をふっかけられ
喧嘩してはすぐに別れの
繰り返しだった。

だからこそ、
このクセづいた自意識を
変えていきたい。
自分はこの悪いクセを
取り払いたい、そう欲求している。

しかし、この問題の対処は
その場しのぎになりがちだった。
まず先に
自分はどんな欲求を持ち
どんな目的を持って生きているのか?
これを明確にしないと
他者との関係も見えてこない
自分が曖昧なままだからだ。

関係

自分にとって他人とは何か?
関係

先ず社会的な関係
自分を中心点にして
自分の仕事
自分の生活、消費
自分が持つ「役割」を通した関係
どれも他者が居ないと成り立たないという
基本中の基本がある
(こんな簡単なことすら
言語化するまで気付けないし
まだ腑に落ちきっていない)
食べ物を作る人、衣服を作る人、
住居を作る人、
その間の流通、仲介をする人、、
そしてその素となる自然、
大地、海、空、地球、太陽、宇宙
の関係の中で生きている。

「関係の中で生きている」という基本
自分以外の何物からも
無関係で生きることは
人間は出来ない。
これが基本。

では、
自分は他者とは無関係でいられない
根本があるにも関わらず
他者に無関心でいられたのは
何故だろう?