焦りと選択

料理の仕上げを失敗し
味が落ちてしまった。
最後の一手間、二手間を惜しんだからだ。
時間にすれば2分くらいのものだったろう。
それを惜しんだ。

自分で自分を焦らせてしまう事はよくある。
1人相撲なのだ。
そしてせっかくのものもフイにしてしまう。

なぜ自分で焦らせてしまうのだろうか?
なぜ自分からダメな方に突っ込んで
いってしまうのか?

一つには「早くラクになりたい」
という頭の中の欲望があって
それを最優先にしてしまい、
対象よりも「我」を
優先させてしまうということ。
それが余裕の無さを招き
短絡的になってしまう。

その時の自分にとって
本当にたいせつな選択は何か?
間違わないようになりたい。

単純化

稽古は
それが出来ているか、出来ていないか?
出来ているとすれば
どのレベルまで出来ているのかを
可視化するために
単純化しなければならない。

行動として起こす際に
結局複合的になって
同時にいくつもの視点で見てしまうと
何が出来て、何が出来ていないのかが
分からなくなってしまう。

一つの視点
一点集中出来ているのか?

声と言葉

声質
「他人に浸透する様な声にはどうすればなれるか?」
他人は自分の鏡なので
逆に言えば、
自分に浸透する様な声になるには
どうすれば良いだろうか?
ということ。
声が自分に通じていれば
相手にも通じる
ただの「音」ではない
意思の載った「声」になるハズだ。

緊張している時は絞り掠れたような声になる。
自分と通じた声とは
いわゆる「腹から出る声」だろう。
それと併せて、別の要素として
「言葉」だ。
言葉は道具だ。
道具がどれだけ手に馴染んでいるかは、
言葉がどれだけ自分の血肉と化しているか?だ。

世間の手垢にまみれた言葉を
洗い直さなければならない。
例えば「社会」
例えば「お金」
例えば「夢」
それらは「こうである」と
周り、世間から言われて来たけれど
果たして本当にそうか?
自分にとって本当にそうなのか?
どんな意味を持つのか?
を問い直したい。

固定化

自分を空け渡す

共感を育てる

自分は差蔑家だなぁと思うことがある。
思考人間はそういう所がある。
頭で考えてどう対処していいか
分からないからだ。
不快を感じる。

頭の中に固まっている
力みを取ればいいだけ。
すると頭の中が空っぽになって
自分に余裕が生まれる。
相手をスッと胸で腹で
受け止められる様になる。

目で相手をギュッと掴もうとしない。
言葉で相手を定義しない。
それらはどれも
日常的に皆やってるけれど
どれも「固定化」という共通点がある。
皆、物事を他人を、そして自分を
固定化したがっている。
でも生命は絶えず変化している。
その変化をただ受け止め
受け流すだけだ。

自分の感情を恥じない

エゴとは何か?
それは「自分」保存欲

今ある自分を変えたくない
自分の要求を押し通したい

往々にしてその「自分」も
会社や家庭での人間関係、上下関係
役割、職業、肩書き、など
自分自身の外側にあるものこそ
「自分」だと、
すり替わった状態になってしまっている。

感情に乗っていこう
自分の感情を瞬間瞬間に
表現していこう。
相手をそのまま受け止めよう

自分だけでは
自分の中に埋没してしまい
分からなくなる。
他人から自分を見ればいい

自分の感情を、喜怒哀楽を
誰にも恥じることはない。


眼と

見るときに

眼球しか使わないから
相手と目を合わせられないんじゃないか?
眼〜胸〜背骨〜腹まで
つなげて見れば
相手をまるごと受け止められる。

「求める」から
眼だけで見に行こうとしてしまう。
予め人が発しているものが
あるのだから
それをそのまま、
自分の腹で受け止めればいいだけ。