遠藤周作『侍』

キリスト教に出会った小説だった。
小説の中で、切支丹に対して全く関心が
なかった日本人たちが、旅路が進むにつれて
最初は現世利益のため、与えられた使命の
ために帰依し、
最後まで「旅」をしたものには、
個人的内面の救いとして、真のキリスト教信仰に至る構成だった。
その物語を追うことで、キリスト教
無関心だった自分も興味を持った。

なぜ主人公の長谷倉は、物語の中でずっと
「侍」と呼ばれ続けたのか?
2つ理由があると思う。
まず一つ目は、長谷倉個人の輪郭をぼかし、
侍という集団に埋没させるためだろう。
長谷倉のことを語りながら、
個人の自意識というよりは、地侍や農民
日本の下層階級、その集団意識の象徴として描かれている。
それは物語の前半、
日本人たちのパートと、牧師ベラスコのパートが対比的に描かれている。
ベラスコのパートは「私」という主観で語られるのに対し、日本人たちのパートは一歩引いた客観的視点で描かれている。さらに、ベラスコは強烈な自意識(野心、傲慢さ、性欲など)を持っているのに対して、前半の日本人たちは、
一人一人の自意識は希薄で、没個性的。ひと塊りの群れとして描かれているように感じる。それはあたかも羊飼いと羊の群れの対比のようだった。

2つ目は、
作者が、キリスト教と侍=武士道に共通の価値観を見出し、
日本におけるキリスト教信仰は、「侍」を通して拡まり得ると考えたからではないかと思う。
それはひとえに殉教である。目的のためには命を賭すという価値観、
それが侍とキリスト教、共通である。
侍は主人のために命を賭けるが、
命を賭ける対象を主=神に変えるなら、
主のために命を賭ける
キリスト教殉教者となり得る。
それは死して長谷倉とベラスコ
は同じパライソに参ったという描かれ方
に表れている。
だから日本とキリスト教との接点として
「侍」という呼称を貫いたのではないか。

宗教とは社会的なものであり、キリスト教は悲惨な社会、厳しい自然を前提として教義が成り立っているのでは?と思える。
社会の中でも一番酷薄なものが政であると言える。権勢が変われば簡単に白が黒となる。一個人では抗い得ぬ巨大な機械。または無情な自然災害、これら巨大な暴力に傷付けられ、救いのない人生に、最後まで寄り添うのが神だと描かれている。
しかし、いかなる悲惨さがあっても神があなたを救うという考え方は、却って現世の悲惨を作り出す、社会体制を強化してしまうのではないか?現世利益を求めず神と忍従することは、社会変革へのベクトルを減衰させる。キリスト教が過去、植民地支配や奴隷制に利用されたように。

正しさ、教化するという考え方。
それは受け手にとって押し付けに近く、
する方にとっては「救い手」としての
義務感、ヒロイズムを内面に生む。