『コンビニ人間』感想

何が「正常」、何が「異常」?
「異常」というレッテルを周囲から貼られた主人公。その境界線のあちら側から、日常の会話に感じることを描き出すだけで、何て不安にさせられ、揺さぶられ、面白いんだろうと思った。
人間の一端を鋭く抉る小説だと思う。

普段の生活とは、表面上の「処理」でこと足りる人間関係が大半だ。
処理には世間で培ってきた「常識」が、相手を測る定規として用いられる。
なぜなら、
それが相手を自分の中で処理する上で
「手っ取り早く」、「簡単で」、「分かりやすい」から。すぐに自分の気持ちを「安心」に持って行けるから。
つまり相手を腹の底から、ありのままに「理解」しようとしているのではない、上っ面で「処理」しているのだ。

世間で言われている「普通」「当たり前」「常識」に全く共感できない人間は一体何処に行けば良いのだろう?
誰にでもあるはずの、無意識のうちに「普通」からこぼれ落ちた、自分にさえ顧みられることのない小さな違和感は、一体どこにいってるんだろう?

物語の最後に彼女は、この社会の末端である、コンビニの完全な部品となること、マニュアルに添い遂げることに活路を見い出した。
しかし、もし震災などで、社会のシステムが壊滅に陥ってしまった場合、そこで通用するコンビニのマニュアルなどない。
今の人間が、本能を優先させなくていいのは、この社会システムがあるからこそだ。マニュアルの通用しない世界では、彼女はどう“合理的に”生きるのだろうか?

他の感想やレビューを読んでみて、
頻繁にサイコパスアスペルガーといった表現を見かける。
いわゆる「病気」と「健康」を区分けする言葉はどんどん増えて氾濫していく一方だ。健康な人間の範囲は狭められていき、まるで一人一人が病気か健康か、事細かに精神分析され、マトリクス表に分類され、仕分けられているかのようだ。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で19世紀帝政ロシアでは、気狂いの人間は神がかり行者として、社会に内包されていた。自分は時代を遡れば遡るほど、健常者と狂人の区別は緩やかで、地続きであり、社会にそのまま内包されていたのではないかと考える。