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創世のエル クリア後感想

この世界に「明確な敵などいない」と
汲み取ってプレイしていた。

「敵」とは
自分が安易に、
苦しい現実からラクになりたく、
現実と向き合わなくて済むように
自分がこしらえたものだと。

それを主人公たちは
実際の行動で、
赤の他人との溝を埋めて来た。
あなたと私は「敵」という。
ボーダーラインを行動で吹き飛ばして来た。
それは繰り返しエメライでナヂャの地で
繰り返し繰り返し表現されていた。

それゆえに
最後の流れに「惜しさ」を、
自分は感じた。

物語が、
敢えてJRPG の王道に則したがために、
最終的にはラスボスを
最後に、外側に「敵」を
用意せざるを得なかったこと。
そして
主人公が「神の代行者」として
世界と関わるのが強制的な流れであったことだ。

そうではなく
ラスボスが倒されたとしても
「それでも続いて行く世界と現実」の一部
として、主人公も市井の1人として生き続けていく
そんな描き方も見たかったし
「選択」させて欲しかったのが本音だった。
物語の始まりから終わりまで
徹底的に「世界」と向き合わされ続けて来たのだから。
だからこそ、その後の身の振り方
世界との向き合い方は
自分で決めさせて欲しかったなぁ
というのが本音。

そして
もう一つこのゲームを通しての気づきが
"意思"は思いや行動を一つにまとめる
収束させるということ。
それは群衆を、ということに限らず
個人の生活の一つ一つの選択、行動でも
意思があるのか無いのかが
肝だということ。
何かを成し遂げたいのなら
スキルや知識や行動力を身につけるよりも
先ず
意思が必要だということ。

最後にゲームという形式について
思うところを。
本で読む物語とは少し違うところが
順を追わずとも良い
インタラクティブな双方向的な読み物
及び、映像体験だということ。
自分はその点が一番ゲームに惹かれる点だし
ゲームの強みだとも思う。
そうであるなら、
ある種ドット絵というのは正解かも知れない。
文章と違い、イメージを絵で実際に見せてしまうということは、受け手の持つイメージを固定化させてしまうということ。
そこには受け手の数だけの想像の余地、隙間が無くなってしまう。リアルな3Dであれば特に。
絵が語り過ぎてしまうという問題がある。
もし絵の第1印象が相手に違和感を
与えるものであったなら
肝心の"没入感"は得られない。
プレーヤーが覚めてしまう。
だから雰囲気ゲーと言われるものに
スーパーリアルな絵作りのものが無いのも
うなづける。
あれだけ「語る」演出だったのだから
絵は想像の余地を残したドット絵だった
というのは、絵と物語の関係では最良のバランスだったのかもしれない。