他者

他者を通じて「私」を知る
「私」について知る、その幅の広さも深さも欲しい。

相手を自分の「正しい間違ってる」で裁くようになって、どんどん他人を受け容れなくなっていった。どこまでを許せて、どこからが許せないのか?

他者からは快を得たい。あまりに自分の中に不快が多かったがゆえに。
ただ現実は、他者は自分に快も不快も与えてくる存在だということ。その他者から貰う快だと感じられること、不快だと感じられることの線引き、受け手の自分のラインが幼いのでは?成熟していない、幼稚なままではないか?という疑問。

不快があるからこそ、快がある。
孤独があるからこそ、二人の大切さがある。

相手の興味、関心の“点”を作ってみる。

本音を分かち合う

雑多な頭の中の情報、知識に振り回されず、
削いで削いで、
自分自身の本音と繋がりたい。
スマホから目を閉じて考えてみる…。


コミュニケーションは、言葉、目線、触れ合い、セックス、相手への意識。
コミュニケーションを本当に上手になりたいのか?上手になってどうするのか?

言葉を使って、相手を自分の思い通りに動かしたい、なんて思わない。「自分の思い通り」な相手ほど、つまらないものはない。

でも、この「自分」を分かち合いたい「相手」、は求めている。それは、動画でも風俗でもキャバクラでも代わりにはならない。

本音を貫き通したい。軸を通したい。筋を通したい。
自分の本音を知り、「共感」出来る相手とつながりたい。本音を表現して生きて行きたい。

では、中々出て来ない自分の本音を知るためには?自分をどういう状況に置くべきだろうか?



自分を見つめないのは?

なぜ自分を見つめる時間を充分に持たないでいるのだろうか?

ネット上の情報で手軽に快不快を手に入れた方が楽だから。

そもそも自分とあるがままに向き合うのは不快極まりない感じがする。それは何故だろうか?

普段の生活、学校や職場で感じる、自分の不快、本音に蓋をして生きているから、だろうか?
それとも
周囲からの評価、レッテルから、自分はダメだからと決めているから、向き合いたくないのだろうか?
なかなか自分と深く向き合えないのは、2つあると思う。1つは、自己否定が降り積もって自分自身を見つめると不快感しか感じないからという場合。2つ目は、うわべだけの感情や反応に流されていた方が楽だし、自分で自分を育てて行くというのはとても面倒くさいことだから。

自分を見つめて、自分で自分を育てていかないと、いつまでも錨を一点に下ろせず、世間の波に流される心のままだろう。

「」の外へ出る

本能
お互いに欠けている所があるからこそ、
交わろうとするんだ。

異性に分かれていて、男女が互いに引かれあう
のは自然だ。

なぜ声を掛けるのに躊躇するんだろう?
相手が嫌な反応した時、自分が傷つくから。
周囲の目線が気になるから。
つまり、自意識が過剰だから。

なぜ自意識過剰なのか?
自分で自分を過保護にしてきたから。

なぜ自分を過保護にしたのか?
無気力で、ただラクに上手く
毎日をやり過ごして行きたかったから。

どうして、好奇心を失くし、
情熱を無くして、自失して
ただ答案の「」に正解するように生きていたから。
「」から踏み出して、常に自分の気持ちから
行動を起こすのだ、それ以外にない。

『コンビニ人間』感想

何が「正常」、何が「異常」?
「異常」というレッテルを周囲から貼られた主人公。その境界線のあちら側から、日常の会話に感じることを描き出すだけで、何て不安にさせられ、揺さぶられ、面白いんだろうと思った。
人間の一端を鋭く抉る小説だと思う。

普段の生活とは、表面上の「処理」でこと足りる人間関係が大半だ。
処理には世間で培ってきた「常識」が、相手を測る定規として用いられる。
なぜなら、
それが相手を自分の中で処理する上で
「手っ取り早く」、「簡単で」、「分かりやすい」から。すぐに自分の気持ちを「安心」に持って行けるから。
つまり相手を腹の底から、ありのままに「理解」しようとしているのではない、上っ面で「処理」しているのだ。

世間で言われている「普通」「当たり前」「常識」に全く共感できない人間は一体何処に行けば良いのだろう?
誰にでもあるはずの、無意識のうちに「普通」からこぼれ落ちた、自分にさえ顧みられることのない小さな違和感は、一体どこにいってるんだろう?

物語の最後に彼女は、この社会の末端である、コンビニの完全な部品となること、マニュアルに添い遂げることに活路を見い出した。
しかし、もし震災などで、社会のシステムが壊滅に陥ってしまった場合、そこで通用するコンビニのマニュアルなどない。
今の人間が、本能を優先させなくていいのは、この社会システムがあるからこそだ。マニュアルの通用しない世界では、彼女はどう“合理的に”生きるのだろうか?

他の感想やレビューを読んでみて、
頻繁にサイコパスアスペルガーといった表現を見かける。
いわゆる「病気」と「健康」を区分けする言葉はどんどん増えて氾濫していく一方だ。健康な人間の範囲は狭められていき、まるで一人一人が病気か健康か、事細かに精神分析され、マトリクス表に分類され、仕分けられているかのようだ。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で19世紀帝政ロシアでは、気狂いの人間は神がかり行者として、社会に内包されていた。自分は時代を遡れば遡るほど、健常者と狂人の区別は緩やかで、地続きであり、社会にそのまま内包されていたのではないかと考える。


遠藤周作『侍』

キリスト教に出会った小説だった。
小説の中で、切支丹に対して全く関心が
なかった日本人たちが、旅路が進むにつれて
最初は現世利益のため、与えられた使命の
ために帰依し、
最後まで「旅」をしたものには、
個人的内面の救いとして、真のキリスト教信仰に至る構成だった。
その物語を追うことで、キリスト教
無関心だった自分も興味を持った。

なぜ主人公の長谷倉は、物語の中でずっと
「侍」と呼ばれ続けたのか?
2つ理由があると思う。
まず一つ目は、長谷倉個人の輪郭をぼかし、
侍という集団に埋没させるためだろう。
長谷倉のことを語りながら、
個人の自意識というよりは、地侍や農民
日本の下層階級、その集団意識の象徴として描かれている。
それは物語の前半、
日本人たちのパートと、牧師ベラスコのパートが対比的に描かれている。
ベラスコのパートは「私」という主観で語られるのに対し、日本人たちのパートは一歩引いた客観的視点で描かれている。さらに、ベラスコは強烈な自意識(野心、傲慢さ、性欲など)を持っているのに対して、前半の日本人たちは、
一人一人の自意識は希薄で、没個性的。ひと塊りの群れとして描かれているように感じる。それはあたかも羊飼いと羊の群れの対比のようだった。

2つ目は、
作者が、キリスト教と侍=武士道に共通の価値観を見出し、
日本におけるキリスト教信仰は、「侍」を通して拡まり得ると考えたからではないかと思う。
それはひとえに殉教である。目的のためには命を賭すという価値観、
それが侍とキリスト教、共通である。
侍は主人のために命を賭けるが、
命を賭ける対象を主=神に変えるなら、
主のために命を賭ける
キリスト教殉教者となり得る。
それは死して長谷倉とベラスコ
は同じパライソに参ったという描かれ方
に表れている。
だから日本とキリスト教との接点として
「侍」という呼称を貫いたのではないか。

宗教とは社会的なものであり、キリスト教は悲惨な社会、厳しい自然を前提として教義が成り立っているのでは?と思える。
社会の中でも一番酷薄なものが政であると言える。権勢が変われば簡単に白が黒となる。一個人では抗い得ぬ巨大な機械。または無情な自然災害、これら巨大な暴力に傷付けられ、救いのない人生に、最後まで寄り添うのが神だと描かれている。
しかし、いかなる悲惨さがあっても神があなたを救うという考え方は、却って現世の悲惨を作り出す、社会体制を強化してしまうのではないか?現世利益を求めず神と忍従することは、社会変革へのベクトルを減衰させる。キリスト教が過去、植民地支配や奴隷制に利用されたように。

正しさ、教化するという考え方。
それは受け手にとって押し付けに近く、
する方にとっては「救い手」としての
義務感、ヒロイズムを内面に生む。


全体が

何にも重要性を置かない。
次の瞬間、すぐ変化できるように。

重要なのは全体であり、連続した流れ。
ある1点で留まってはダメなのだ。

しかし
力強い全体を作るためには
一点に徹底的に集中する必要もある。
全体と一点は相補関係にある。

全ての部分が重要だからこそ
何にも重要性を置かないという
レトリック

自分自身の
良いところももちろん大事だが
欠けているところも大事。

欠けているからこそ、
他者を求める。
欠けているからこそ、
行動を起こせる。
満ち足りているからこそ、
他者に与えられる
満ち足りているからこそ、
じっとしていられる。