中心は感じること、思考はその縁

「快」気持ちよかったり、心地よかったり
落ち着いたり、楽だったり
それらは、当たり前だけど
思考を働かせている最中には無かった。
唯々、感じることだった。

考えている間、
本当に感じることに鈍感になる。
四六時中考えてばかりいると、
自分のからだに鈍感になるのも
無理はない。

考えず、
ただただ、感じることは、
ただただ、生きていることに
気づかせてくれる。

理由なんか分からない
考えたって分かるハズがない。
思考は生きること、本能、
感じた結果、の補助に過ぎない。

感じることが
生きることの中心なら
思考はその周縁だ。
周りを回っている。
その運動に囚われたら
体と心のバランスを崩すのがオチだ。

意識を散漫にするように
思考するのではなく、
感じたことを、
1つにまとめあげられるように
思考すべきだ。

そのためには
自分の思考一つ一つに囚われず、
思考の全体を俯瞰できるように
しなければならない。

目に見えるように外に書き出して、
グループ分けを丁寧にくりかえすことだと思う。


やること一点を決めて、己は捨てる

瞬間、瞬間に、自己を投げ捨てること。
ダメならダメな方が良いと
恐れを感じる方に賭けて
飛び込む。
自分の恐れと、真正面から向き合う。

やることは、思考がはたらく前に動くこと。
それを瞬間、瞬間の「今」に
続けること。

相手に好かれようとしなくていい。
相手に好かれようとすると、
自分が中心でなくなる。
うまくやろうとして弱くなる。
見返りなど気にせず、
「私が」好きだよっていう気持ちを
ぶつければいいだけ。

思考も行動もシンプルでいれますように。



油絵課題(2枚目)

見えている「強さ」の序列を観る。
手前の物の、ハッキリとした目の映り様
奥の物の、ボンヤリとした目の映り様
それを観て行くこと。

平面の画面に色と筆圧で定着させることで
画面に空間を生み出して行く。

そして
一つの物の中にも
手前に出ている面と
奥に逃げて行く面の関係性

水平と垂直
1番上と接地面
そして落としている影の濃淡を観る。

固有色、光と影の面でも
連続性を保つように色の組成を考えておく

一つの物だけで観るのではなく
周囲との関係性、強弱でも観る。

対象は「触れるように観る、触れるように描く」


もっと

もっと自分自身に興味を持て
もっと自分自身を観察しろ
もっと自分自身を愛し切ろ
もっと主体で生きろ

小さな事にも楽しみを見出せ
徹底的に向き合え
本気になって
やれるだけのことやりきった方が楽しい
俺は俺のままで良いんだ
という軸を作る
そこが中心点だ

弱った時には

自分が病んでしまった時
現実は「思い通りにいかない」ことを
先ずは受け入れよう

健やかなる時も病める時も
いつもいつも「自分に多くを求めすぎる」と
病める時に、自分に対して
無駄にたくさんのイライラを溜めてしまう。

誰しも体調の好不調があり、
時には病気になってしまうものだ。

出来ない自分を赦そう

弱っている時には
自分に求めることも最低限にしよう
それは仕方のないことだと
諦めよう。

自分が体調を崩す時は
精一杯絵や仕事に打ち込んだ時だ。
「諦める」という言葉には
マイナスイメージもあるけれど
精一杯やった結果、未練を断ち切るという
良い意味もある。

人の状態(気分・体調)は必ず
正(プラス)やポジティブ
行動、積極的な時だけじゃない。

負(マイナス)やネガティブ
静止や休息の大事さも見ていこう。

そうして
ありのままの自分の状態を受け入れる

自分を裁くことなかれ


嘲笑

何故、他人を嘲笑うのか?
嘲笑する理由は何か?

他人をバカだと思った時
自分は人を嗤う。

どんな時に他人をバカだと思うか?
その人の認識の浅さ。
他人に対するグチ、芸能人の醜聞を話したり
ただただ周囲に振り回され
表面上の幼い価値観しか持たず
カッコウを付けて話している人達を
自分は嗤う。

けれど

嘲笑うには、
絶対に自分の方が正しいという
考えがないとできない。
この世に絶対は無い
自分が絶対正しいと思うのは
幼児性の表れだ。

それに
他人を嘲笑すると
小さな自尊心は満足するが
自分の体の中に苦味やエグミ、酸味に
似た感覚がスグに襲って来る。
気持ちが悪いのだ。
明らかに嘲笑は自分にとって毒になっている。

嘲笑は
相手より優位に立ちたい心理
自意識の過剰包装
不安定さの裏返しでしかない。

嘲笑を誘うような他人の言葉に反応する
必要がない
本当に自分の方が深いのなら、
受け流せるハズだ。
受け流せるか否か?
それが
自分の価値感を測る尺度だ。

目標は
他人から嘲笑われることも含めて
他人の反応は一切、自分には変えられないのだ
という諦めに達すること。

人から
「バカだねぇ〜」って
笑われるようになってからが
自意識を成長させるスタートだ。

掌-たなごころ-

手で触れる対象を感じようとする時
指先が力んでない事が大事だ。
指先が力むと、
握った鉛筆の中心軸を感じられなくなる。
相手を無いものとして扱ってしまう。

それは
手で扱う道具の扱いを上達する上で
非情な妨げになる。

鉛筆でコップのデッサンを描く時
例えば、コップのフチの線を引く瞬間には
あのコップのフチの滑らかなカーブの
「肉体的な実感」が伴っていなければ
ならないし、
翻って紙に押し当てた鉛筆の先の感覚も
自分の中に感じていなければならない。

しかし
手、全体や指先を力ませて鉛筆を
握っているとそれらを「感じること」を
殺してしまう。
メチャクチャな鈍感になってしまう。

道具を手で扱う際には
握るではなくて触れる感覚を持つこと。
そのために手の平の真ん中、「掌」が
大切だろう。

忘れがちな掌の感覚を
自覚する上で大事なのは
掌に通じる手首と
掌を中心とした手の平の端点
小指が大切だろう。

この触れる力まない、は
心という道具にも当てはまるのでは
ないだろうか?