必死

今日の自分は

今朝うまれて
今夜しぬ

そんな感覚で生きて行けたら
少しは
本当にやりたいことから
目をそらし
時間を無駄にすることも
減らせる

いつか必ず死ぬことを
胎の中心に置いておく

永遠の繰り返しの生活などない
必ず終わる
素で
新しい日を
昨日とはまた少し違う自分で
生きる

濃淡


胸骨を最も濃く意識して、
体内各所に散らばった意識を
ひとつの濃淡でまとめ上げる。
胸骨以上に濃い意識の場所を作らないように。

濃くなりがちなのが
首の頚椎。
目に意識を囚われることで
ここも連動して濃く意識しがち。

今、「透明」か?
自分の素にまっ直ぐか?

人として触れなければならない
部分がまだまだある。

根っこの幅広

自分に対する関心の幅を広げること
自分に色んな新しい体験をさせてみる

例えば庭の草むしりでも
根っこが縦にひょろ長いものはあっさり抜ける
根っこが横に幅広のものは中々抜けない

人間の幅の広さにもこれが当てはまる
経験の幅が広い人は失敗しても倒れにくい

何でもいい
入ったことの無いお店に入ってみる
野外でも
ラフティング
乗馬
自分がまだやったことの無いことをやる。
未体験のものを自分事にしてみる。
その経験を通じて自分を見返してみる。
あぁ、自分はこんな時
こんなふうに感じるんだなぁと。
徹底的に自分の気持ちを大切にし
自分の本音に敏感になってみる。

意志で動いているか?

意志が大事
意志・気持ちが、からだを生かしている。

自分の気持ちをもう二度と手放さないこと。
自分の気持ちを無視し
思考に意識が行っている時
「胸は落ち」、肋骨が腹を圧迫している。

だから、胸骨から動き出しているか?
その一点に集中してからだを観察すること。

例えば他人との会話、自分との対話
家での実生活の
からだの動作の中で生まれる
体内の感覚をじっくりと観察すること。

自分の意志によって行動し
行動した結果を受けて
自分の意志と相談しながら
ここで思考を使う。

思考は現実社会との調整役・バランサー。
誰かのモノマネでない
自分としての人生を歩くのなら、
その先導役は、思考でなく自分の意志

今、ここ、
自分
意志で動いているか?
思考で動いているか?
観察


素の自分との距離を0に戻す

人間関係、人間関係と云うが
そもそも
他人との関係を憂う前に
自分との関係はどうなっているのか?
が問題だ。

頭の自分と体の自分との関係は
どうなっているのか?

物心ついてから
頭、思考がずーっと主導権を握っていて
どんどん体、気持ちで動くことを
恐がるようになって言った。

自分の本音を思考が力づくで抑え込んで来た
思考と本音が、
自分の中で喧嘩ばっかりしていた。

思考で正しいと決めたことに
自分の本音や欲求がはみ出したり
反していると、裁いていた。

思春期には最早、
他人が自分を否定する前に
自分の思考が自分を否定していた。

ますます思考と本音は解離していった。

なぜこんな長い間
自分の気持ちを殺して来たんだろう。思考で。
どうして、生きていくことの主導権を
思考にばかり握らせて来たんだろう?

ありのままの自分ではダメだと、
そのままじゃいけないと、
周囲から教え込まれて来た。

努力して努力して
自分ではない何者かに
世間で言う「いいもの」
成らないといけないと。
そう信じた自分の思考は、
素の自分、
上手くやれない自分に
どう接したか?

自分の思考は「自分のダメなところ」を
受け入れなかった。
だからクサイものに蓋をした。
出来るだけありのままの自分が
表に出ないように。
素の自分を無視する事に長け、
距離を取り続けた。
でも、
実際に今、働いたり、恋愛したり
人間関係の中で求められたのは
自分を出すこと、表現することだった。

気持ちで、考えるより前に動けば
体の自分との"距離"は0だ。
素直さとは無になること
いちいち判断を差し挟まない。
気持ちを言葉で切り刻んで殺さない。
気持ちで動くこと
胸から先に動くこと

日常に無、余白を取ること。
瞑想する。

奪う緊張、与える自由

相手を緊張させてしまう。
それは自分が
相手から「ありのまま」の自由さを奪っている。
自分の相手に対する眼差しや雰囲気が
どこか

「こうでなくてはならない」
「お前ははみ出してないよな?」
「欠けているところはないよな?」
といった

相手を自分の「枠」の中に
強制して嵌め込む様なところが
滲み出てしまっている。

その態度、考え方は
もちろん、自分自身に対しても完璧でない
ありのままの自分であることを許さない。
これは自分にも他人にも
非常な息苦しさを味わさせる。

自分はなぜ?こんな関係性を築いてしまうのか?癖になっているのか?
その無意識のうちの目的は何か?

自分の価値観の定規を、絶対だと
相手に押し付けて、
関係において自分の想定外の言動が
相手から出てくるのを抑えるためにやってるのではないか?そう思える。
自分の安心の枠内を守るために
もし相手の素直な言葉が自分を
傷つけるものだったら?
その不安を除くために
相手から「ありのままでいる」ことを
奪っている。

では、そもそも自分がありのままで居る
ためには?
欠点や不安、ダメなところも
隠さず見せることだろう。
ダメなところも自分の一部として
受け入れていなければ出来ない。
心の「遊び」「空白」部分がないと
いっぱいいっぱいであれば
受け入れることすらも出来ない。
ではどうやって
ダメな部分も受け入れ「遊び」を
作り出していくか?だ。

自分のなかに「素直さ」を育もう。
なにか外から「設けた」自分像を作ろうとするのではなく、
本音を大切にし内側から自然と滲み出た自分で
あるように。