プラスマイナスゼロ

相手を全肯定する。
自分の判断を差し挟まず、
自分ではない相手のこととして
相手からのものを全てを受け入れてみる。

相手の意見は喉で止めない
胸で止めない
下腹でも止めない

下腹まで下ろして
背中から抜く

これが体感としての全肯定だと感じる。
これを鍛える。
途中で緊張するのは
自分の人としての幅が狭いから、
自分という軸が出来てないから。

そして
全肯定は同時に自分自身にも当てはまる。
自分の感情を一旦、全て受け入れなければ
本音の自分自身が
表面の自分自身に無視されたままだ。

自分の奥から沸き上がる感情こそ
世間や会社、常識という
ちゃちな価値観で作られた
表面の意識で
良い悪いなどと判断してはダメだ。

でないと
素の自分に戻れない。
目的は一つ
出来る限り素の自分でいること。
感情や思考がプラスにもマイナスにも
揺れながら
でもその都度ゼロの素に戻ること。

記憶と身体

記憶は身体に刻まれている
のではないかと思う。

ふとした時に記憶が再生される。
「思い出づる」時、
自分の場合はその時、その場面の
自分視点からの映像と、
身体が感じた体感が再生される。

体感の再生は
明らかに身体の変化として
表れている。

それら映像と体感それらの内
言語化されたものだけが
脳で扱われているのではないか?
と思う。

記憶とは
普段生きていて、
体外体内から受け取っている
情報のうち
自分にとって意識化されたもの
ピントが合っちゃったもの
に限られているのではないか?

無意識には
自分が接するもの全てから
情報を得ているとすると
その大きな氷山の一角に
過ぎないものが
記憶の範囲ということになる。


怒りや悲しみを抱えた家族の中で
育つと、
恐怖や不安という記憶が
身体に溜め込まれているということ。
ということは
現実という巨大な氷山の中で
意識は怒りや悲しみ恐怖や不安を
想起させることにピントが合いやすい
状態になっているのではないか?
という疑問がある。

本当は自分の汲み取り方次第で
自分自身を成長させていける体験かも
知れないのに。

先ず自分

何故、自分は他者に無関心だったのか?
大人たちが喧嘩に明け暮れる
家庭環境があって
他人とは関わりたくないと思って
生きて来た。

他人と関わるのは
いつ口撃されるのか?
いつ嫌われるのか?
恐怖、不安だらけだった。

だから
他人と話す時に
体がギュッと緊張する癖がある。
またどんな人の前でもありのままでいる
ということが出来なかった。
どんな人に対しても防御を
とってしまう自分がいる。

しかし、これは他者との関係の中で
生きていく際に大きな障害となった。
一番際たるものは恋愛だろう。

自分の身を守る事にしか
関心がなかったから
相手を思いやる想像力に欠けていた。
相手に自分のありのままを
さらけ出すことが出来なかった。
そんな人間の恋愛が上手く行くはずもない。
いつも距離がある自分に対する
苛立ちから喧嘩をふっかけられ
喧嘩してはすぐに別れの
繰り返しだった。

だからこそ、
このクセづいた自意識を
変えていきたい。
自分はこの悪いクセを
取り払いたい、そう欲求している。

しかし、この問題の対処は
その場しのぎになりがちだった。
まず先に
自分はどんな欲求を持ち
どんな目的を持って生きているのか?
これを明確にしないと
他者との関係も見えてこない
自分が曖昧なままだからだ。

関係

自分にとって他人とは何か?
関係

先ず社会的な関係
自分を中心点にして
自分の仕事
自分の生活、消費
自分が持つ「役割」を通した関係
どれも他者が居ないと成り立たないという
基本中の基本がある
(こんな簡単なことすら
言語化するまで気付けないし
まだ腑に落ちきっていない)
食べ物を作る人、衣服を作る人、
住居を作る人、
その間の流通、仲介をする人、、
そしてその素となる自然、
大地、海、空、地球、太陽、宇宙
の関係の中で生きている。

「関係の中で生きている」という基本
自分以外の何物からも
無関係で生きることは
人間は出来ない。
これが基本。

では、
自分は他者とは無関係でいられない
根本があるにも関わらず
他者に無関心でいられたのは
何故だろう?

自分と対峙しつづけること

自分にとって他人とは何だ?
そもそも自分は何者なのか?
自分は何を欲求しているのか?
自分は何を目指しているのか?

自我や自意識を知り、それらと対峙し続ける

それには人間を知らなければならない。
幅広い人間知を持って
自分自身を見返さなければならない。

現在の自分は
自我が出来上がる過程での、
自分が知った範囲内での
知識、社会体験によって
すっかり自分の思考のクセが
出来上がってしまっている。
その「」内でしか
自分を判断出来ないからだ。

つまりその「」の外にあることを
取りこぼしてしまう。
今現在のレベルの自分の
目に見えるものしか分からない
可能性がかなり限定された
「自分」に落ち着いてしまうからだ。

そういった可能性やポテンシャルを
含めた人間としての自分を知りたい。
このがんじがらめになった
卑小な自意識の殻を破り続けて
成長させたい
今の「自意識」では届かないレベルに
あるものを捨て身になって体得したい。






絵の全体を見る

仕事量の多さ、少なさを
見極めてバランスを取っていくこと

全体を見てバランスを取ることが
まだまだ出来ていないから、
「絵の全体を頻繁に見る癖をつける」ことを
これからも徹底しよう。
その為に少し描いたら、
全体の中でそこはどう成ったかを見る。
逐一。

そして絵を描く以上は
絵から逃げない。
自分の出来る限りの仕事をしよう。

直接間接

心の問題を治すには
心を直接どうにかしようとするのでなく
体を使うことで
間接的に解決に繋がる気がする

直接ではなく間接
自意識ではなく無意識を
使った解決方法があるんじゃないか?

例えば
相手に気をとらわれたり
相手の欠点ばかりを探してしまう
思考の"癖"があるとすると
しれを直接考えちゃダメ!とするのではなくて
考え始めたなと自分自身で気付いたら
パッと考えることから呼吸の
吐く息の数を数えることに意識を逸らす
すると間接的にその癖に囚われなく
なっていけるのではないだろうか?