苦しみは自ら生む

絵を描く上で、何の苦しみもなく自由自在に描けることを目指してしまっていたのではないだろうか?

うまく描けないことへの苛立ち
うまくいかない度に自分に怒るようになってしまった。
しかも怒る理由は、「なぜ最初からあの絵師のようにスラスラと、うまく自在に描けないのか」
という無茶な信念から来るものだった。

先ずは信念を現実に立ったものにする。
「絵のデッサンやパース、色の扱い方などの基礎技術の修得には熱心に取り組んで何年も掛かるだろう。何かを習うということはそれほどの時間を要するものだ。だから今は出来なくて当たり前。出来るようになるためにはどうするか?今、この瞬間自分の身体はどう感じているか?観察を大切にしよう。」

力むと自分が分からなくなる

丁寧に物に触れてみよう。
それは自分の体を丁寧に扱うことだから。
雑に物に触れている時、
粗雑に自分の体を扱っている。

力を込めて、押しつぶすように物を握ると
物の質感が分からなくなる。
力いっぱい体を力ませると
今、自分がどんな状態か
分からなくなる。

力むと自分が分からなくなる

エゴ、比較、ギャップ

エゴとは何か?
「自分」に対する執着
他人よりも抜きん出ようとする我欲。

なぜ?周りよりも得をしたいのか?
なぜ?周りよりも幸せでありたいのか?
なぜ?周りよりも認められたいのか?
なぜ?周りよりも優れていたいのか?

自分の人生を他人と比較するから。

ギャップが無ければストレスは生まれないのではないか?
理想と現実のギャップ
自分と他人とのギャップ

悟りを得た禅僧のように
期待を抱かず
現実をそのまま受け入れられていれば
ギャップから来るストレスが
生まれることはない。


神戸の美

神戸の自然
鉢植えに入った綺麗な草花を
美しいとする文化に感じた。

手入れが行き届きコントロール可能な
小さな自然
椅子に腰掛けた緑

自然との付き合い方を見ると
その土地の人が
どんなものを美しいとするかが分かる

神戸の場合は
野性味を削いだ箱庭の美


空間、頭の中

最新の駅ビルの空間を歩いていると、
デザイナーの頭の中を歩かされている気分になる。
全てに意図があって、
無意識に「こうなってしまった」という
どうしようもなさや、偶然性を
ほとんど感じない。
そこには金が絡み、人にウケようという狙いが透けて見える。
それがつまらない。

人間の頭の中が空間を作る。
では自分はどんな空間を作って行くのか?
既知と偶然のモザイク。

映画『コヤニスカッティ』

情け容赦ない巨大な社会の流動の中で
我々はバラバラに専門分化され超近視眼的に
ただ反射的に生きてる。

オーケストラと工場の労働がシンクロし過ぎて
笑いと哀しみが同時に込み上げてくる。
本物のオーケストラを目の前で聴きながら
バックスクリーンに映像を流して欲しいくらいに、音楽も主役だ。

もし、コヤニスカッティの戦前版があって
日本軍首脳が事前に観賞してたなら
「アカン、こんな化け物じみた国に勝てるわけない」って太平洋戦争は回避されてたかも。
そんな妄想を抱くぐらいの
アメリカの都市の巨大さ自動化された社会を
嫌という程、見せつけられた

徹底的に対象に向き合うことを強いられる映画
特にジャンボジェットの様な巨大なものと
一人で向き合うのには力が必要だった。

「疑いもなく進んでいく生活は、まさに宗教的営みだ」
当然の習慣を「疑わない」ことは盲目の信者だ。拝金物質教。
社会は絶えず問題を我々に訴えかけている、見過ごされ続けながら。

物作りとして監督や作曲の言葉が印象的だった。この作品は観客に気に入られるためのものではなく、自らが作ることで悟りを得るためのもの。CMの映像と音楽には観客の入る隙間が無い話。時間をかけて良くするために何度も作り直した話。そして、この映画は陳腐な作り話ではなく、体験であり続いていく旅であるという話。

映画『霧の中の風景』

幼い姉弟の父親を見つける旅は、
「父」の元へとみまかる旅だった。

きょうだいはまるで、この世の人間ではなく、
出会う人、道行く人それぞれが
かつて持っていた子供の心
純粋さの象徴、夢、天の使い。
旅芸人のオレステスは、
大切にしていた旅芸人で居続けることを
諦め、軍隊に入ることを選ばざるを得ない。
国や時代に翻弄され、いじめられて。
彼は姉弟に言う
役者は難しい仕事なんだと。
人を泣かせて、笑わせて、
演じるのは「自分の役」
この一座が演じるのは「たった1つの演目」
それは1人の人間の一生

子供たちは最期まで、
父親がドイツに居ると信じ続ける。
あたかも
神は必ず存在すると信じる信仰心のように。
人は一生の間に、
何を信じ、何を裏切って生きて行くのだろう?

画面はどのシーンも絵画的で
絵としての構図を強く意識されている。
役者の立ち位置も厳格に点で決まっていそう。
時折さし挟まれる
前後の脈絡が抜け落ちたような
突然のシュールなカット。
そのシュールさが、旅に非現実感を与え
ありふれた風景のはずが、
見る者に詩を感じさせる。

子供の時の思い、記憶を
大切にしたいと思う映画だった。