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素の自分との距離を0に戻す

人間関係、人間関係と云うが
そもそも
他人との関係を憂う前に
自分との関係はどうなっているのか?
が問題だ。

頭の自分と体の自分との関係は
どうなっているのか?

物心ついてから
頭、思考がずーっと主導権を握っていて
どんどん体、気持ちで動くことを
恐がるようになって言った。

自分の本音を思考が力づくで抑え込んで来た
思考と本音が、
自分の中で喧嘩ばっかりしていた。

思考で正しいと決めたことに
自分の本音や欲求がはみ出したり
反していると、裁いていた。

思春期には最早、
他人が自分を否定する前に
自分の思考が自分を否定していた。

ますます思考と本音は解離していった。

なぜこんな長い間
自分の気持ちを殺して来たんだろう。思考で。
どうして、生きていくことの主導権を
思考にばかり握らせて来たんだろう?

ありのままの自分ではダメだと、
そのままじゃいけないと、
周囲から教え込まれて来た。

努力して努力して
自分ではない何者かに
世間で言う「いいもの」
成らないといけないと。
そう信じた自分の思考は、
素の自分、
上手くやれない自分に
どう接したか?

自分の思考は「自分のダメなところ」を
受け入れなかった。
だからクサイものに蓋をした。
出来るだけありのままの自分が
表に出ないように。
素の自分を無視する事に長け、
距離を取り続けた。
でも、
実際に今、働いたり、恋愛したり
人間関係の中で求められたのは
自分を出すこと、表現することだった。

気持ちで、考えるより前に動けば
体の自分との"距離"は0だ。
素直さとは無になること
いちいち判断を差し挟まない。
気持ちを言葉で切り刻んで殺さない。
気持ちで動くこと
胸から先に動くこと

日常に無、余白を取ること。
瞑想する。

奪う緊張、与える自由

相手を緊張させてしまう。
それは自分が
相手から「ありのまま」の自由さを奪っている。
自分の相手に対する眼差しや雰囲気が
どこか

「こうでなくてはならない」
「お前ははみ出してないよな?」
「欠けているところはないよな?」
といった

相手を自分の「枠」の中に
強制して嵌め込む様なところが
滲み出てしまっている。

その態度、考え方は
もちろん、自分自身に対しても完璧でない
ありのままの自分であることを許さない。
これは自分にも他人にも
非常な息苦しさを味わさせる。

自分はなぜ?こんな関係性を築いてしまうのか?癖になっているのか?
その無意識のうちの目的は何か?

自分の価値観の定規を、絶対だと
相手に押し付けて、
関係において自分の想定外の言動が
相手から出てくるのを抑えるためにやってるのではないか?そう思える。
自分の安心の枠内を守るために
もし相手の素直な言葉が自分を
傷つけるものだったら?
その不安を除くために
相手から「ありのままでいる」ことを
奪っている。

では、そもそも自分がありのままで居る
ためには?
欠点や不安、ダメなところも
隠さず見せることだろう。
ダメなところも自分の一部として
受け入れていなければ出来ない。
心の「遊び」「空白」部分がないと
いっぱいいっぱいであれば
受け入れることすらも出来ない。
ではどうやって
ダメな部分も受け入れ「遊び」を
作り出していくか?だ。

自分のなかに「素直さ」を育もう。
なにか外から「設けた」自分像を作ろうとするのではなく、
本音を大切にし内側から自然と滲み出た自分で
あるように。

先入"観"

期待しない
相手に求めない
相手に自分の理想を押し付けない
なんと難しいことか!

どうして
ついつい相手との距離感を見誤り
ガサツに踏み込み過ぎてしまうのか?

どうどう巡りになるけれど
相手に「期待」しているから。
言葉を変えるなら
身近な相手に、
「先入観」を持ってしまっているから。

生活の中で
身近な相手に先入観を持たないことは
とても難しい。
イメージで相手を固定してしまった方が
大抵スムーズで処理としてはラクだからだ。
だから
自分の先入観を
監視しておくのは難しい。

先入観を、自分の頭の中で
のさばらせない為には
真っ新な目で見るしかない。
目の力みを取って、
目で相手を掴もう、押えこもうと
するのではなく
受け身な目の使い方をする。
それは
頭で考えながら見るのではなく
からだで相手を感じて観る方法。
ありのままの相手を
素直に自分の中に通してしまう方法

相手を信じ、どんなに裏切られようと
そこで、どう振る舞えるかは
いつも
自分の手のひらの中にある

ありのままを受け、流す

創世のエル クリア後感想

この世界に「明確な敵などいない」と
汲み取ってプレイしていた。

「敵」とは
自分が安易に、
苦しい現実からラクになりたく、
現実と向き合わなくて済むように
自分がこしらえたものだと。

それを主人公たちは
実際の行動で、
赤の他人との溝を埋めて来た。
あなたと私は「敵」という。
ボーダーラインを行動で吹き飛ばして来た。
それは繰り返しエメライでナヂャの地で
繰り返し繰り返し表現されていた。

それゆえに
最後の流れに「惜しさ」を、
自分は感じた。

物語が、
敢えてJRPG の王道に則したがために、
最終的にはラスボスを
最後に、外側に「敵」を
用意せざるを得なかったこと。
そして
主人公が「神の代行者」として
世界と関わるのが強制的な流れであったことだ。

そうではなく
ラスボスが倒されたとしても
「それでも続いて行く世界と現実」の一部
として、主人公も市井の1人として生き続けていく
そんな描き方も見たかったし
「選択」させて欲しかったのが本音だった。
物語の始まりから終わりまで
徹底的に「世界」と向き合わされ続けて来たのだから。
だからこそ、その後の身の振り方
世界との向き合い方は
自分で決めさせて欲しかったなぁ
というのが本音。

そして
もう一つこのゲームを通しての気づきが
"意思"は思いや行動を一つにまとめる
収束させるということ。
それは群衆を、ということに限らず
個人の生活の一つ一つの選択、行動でも
意思があるのか無いのかが
肝だということ。
何かを成し遂げたいのなら
スキルや知識や行動力を身につけるよりも
先ず
意思が必要だということ。

最後にゲームという形式について
思うところを。
本で読む物語とは少し違うところが
順を追わずとも良い
インタラクティブな双方向的な読み物
及び、映像体験だということ。
自分はその点が一番ゲームに惹かれる点だし
ゲームの強みだとも思う。
そうであるなら、
ある種ドット絵というのは正解かも知れない。
文章と違い、イメージを絵で実際に見せてしまうということは、受け手の持つイメージを固定化させてしまうということ。
そこには受け手の数だけの想像の余地、隙間が無くなってしまう。リアルな3Dであれば特に。
絵が語り過ぎてしまうという問題がある。
もし絵の第1印象が相手に違和感を
与えるものであったなら
肝心の"没入感"は得られない。
プレーヤーが覚めてしまう。
だから雰囲気ゲーと言われるものに
スーパーリアルな絵作りのものが無いのも
うなづける。
あれだけ「語る」演出だったのだから
絵は想像の余地を残したドット絵だった
というのは、絵と物語の関係では最良のバランスだったのかもしれない。

"歪んだ目"

目に映る"像"を歪ませずに観ること
対象を掴まえようと
力んで見てしまうと
途端に目の中の像は歪む
面白い。

目を力んで使えば使うほど
像に
「自分の都合・思い込み」が
入り込み、
微妙に歪めてしまう。

例えば
人間の意識は水平や正面の安定を好むから
石膏像で言えば首のねじれを実際よりも
少なくしたり、
両肩の傾きを水平に描いてしまったりする。

つまり
相手をありのまま見ているのではなく
自分の都合で見てしまっているのだ。

デッサンはそんな
自意識の動きさえ教えてくれる。

自分の中心からズレない

自分の思いに集中する。
自分の本音を汲みあげること。
それが常に生きる最初の一歩だ。

どうすれば、
自分の本心、本当の願いからズレずに
今日の自分を燃焼し切ることが
出来るのか?

仕事で上手くいかなければ
他人を心の中で攻撃し、
家に帰ればスマホ

どうすれば、
自分の本当の願いに向かう
一歩一歩、瞬間瞬間の
過程を脇目も振らずに集中出来るのか?

本願を無意識にまで刷り込むこと。

上手くいかない時他者を攻撃するのではなく
自分に立ち戻ること。
自分の中で起きていることを知ろうとする。
イライラを人にぶつけようとしているのは
何故なのか?
イライラの楽な解消法だからだ。
上手くいかないイライラを
この瞬間、やり切ることに使えたら。

食事・睡眠の管理
生活の管理
一瞬一瞬の選択
どっちが本当に自分を充実させ得るか?
挑戦がある方だろう?

そして常にベースとして
からだ使い、姿勢の問題がある。
姿勢を正す。
自分の中心からズレない。
それが自分の本心からズレないことに
繋がると思う。




殺すな

自分を突き動かして、生きていくこと
その上では
思い・気持ちが主人であって
知識・情報は従者であるべきだ。

自分で「自分」を殺す人は
自分の思い、本音本心を
からだの叫びを、頭で無視している。
そうして行動を起こさない。

自分を殺すなよ
あなたの人生だろ。

行動を起こさない限り
自分自身が質的に変化していくことはない。
思考の迷路、無限ループ
どうどう巡りに陥るだけ。
周囲はどんどん流れ変化していく
というのに

生まれてこの方
後付けで身につけてきた
知識・技術は全て
思いが先にあって初めて必要なものなんだ。
求める思いを、行動に移して
実現させるために使うものなんだ。

決して知識や技術に振り回されて
自分の思いがおざなりにされるために
人間は生きているんじゃない。