映画『コヤニスカッティ』

情け容赦ない巨大な社会の流動の中で
我々はバラバラに専門分化され超近視眼的に
ただ反射的に生きてる。

オーケストラと工場の労働がシンクロし過ぎて
笑いと哀しみが同時に込み上げてくる。
本物のオーケストラを目の前で聴きながら
バックスクリーンに映像を流して欲しいくらいに、音楽も主役だ。

もし、コヤニスカッティの戦前版があって
日本軍首脳が事前に観賞してたなら
「アカン、こんな化け物じみた国に勝てるわけない」って太平洋戦争は回避されてたかも。
そんな妄想を抱くぐらいの
アメリカの都市の巨大さ自動化された社会を
嫌という程、見せつけられた

徹底的に対象に向き合うことを強いられる映画
特にジャンボジェットの様な巨大なものと
一人で向き合うのには力が必要だった。

「疑いもなく進んでいく生活は、まさに宗教的営みだ」
当然の習慣を「疑わない」ことは盲目の信者だ。拝金物質教。
社会は絶えず問題を我々に訴えかけている、見過ごされ続けながら。

映画『霧の中の風景』

幼い姉弟の父親を見つける旅は、
「父」の元へとみまかる旅だった。

きょうだいはまるで、この世の人間ではなく、
出会う人、道行く人それぞれが
かつて持っていた子供の心
純粋さの象徴、夢、天の使い。
旅芸人のオレステスは、
大切にしていた旅芸人で居続けることを
諦め、軍隊に入ることを選ばざるを得ない。
国や時代に翻弄され、いじめられて。
彼は姉弟に言う
役者は難しい仕事なんだと。
人を泣かせて、笑わせて、
演じるのは「自分の役」
この一座が演じるのは「たった1つの演目」
それは1人の人間の一生

子供たちは最期まで、
父親がドイツに居ると信じ続ける。
あたかも
神は必ず存在すると信じる信仰心のように。
人は一生の間に、
何を信じ、何を裏切って生きて行くのだろう?

画面はどのシーンも絵画的で
絵としての構図を強く意識されている。
役者の立ち位置も厳格に点で決まっていそう。
時折さし挟まれる
前後の脈絡が抜け落ちたような
突然のシュールなカット。
そのシュールさが、旅に非現実感を与え
ありふれた風景のはずが、
見る者に詩を感じさせる。

子供の時の思い、記憶を
大切にしたいと思う映画だった。

他者

他者を通じて「私」を知る
「私」について知る、その幅の広さも深さも欲しい。

相手を自分の「正しい間違ってる」で裁くようになって、どんどん他人を受け容れなくなっていった。どこまでを許せて、どこからが許せないのか?

他者からは快を得たい。あまりに自分の中に不快が多かったがゆえに。
ただ現実は、他者は自分に快も不快も与えてくる存在だということ。その他者から貰う快だと感じられること、不快だと感じられることの線引き、受け手の自分のラインが幼いのでは?成熟していない、幼稚なままではないか?という疑問。

不快があるからこそ、快がある。
孤独があるからこそ、二人の大切さがある。

相手の興味、関心の“点”を作ってみる。

本音を分かち合う

雑多な頭の中の情報、知識に振り回されず、
削いで削いで、
自分自身の本音と繋がりたい。
スマホから目を閉じて考えてみる…。


コミュニケーションは、言葉、目線、触れ合い、セックス、相手への意識。
コミュニケーションを本当に上手になりたいのか?上手になってどうするのか?

言葉を使って、相手を自分の思い通りに動かしたい、なんて思わない。「自分の思い通り」な相手ほど、つまらないものはない。

でも、この「自分」を分かち合いたい「相手」、は求めている。それは、動画でも風俗でもキャバクラでも代わりにはならない。

本音を貫き通したい。軸を通したい。筋を通したい。
自分の本音を知り、「共感」出来る相手とつながりたい。本音を表現して生きて行きたい。

では、中々出て来ない自分の本音を知るためには?自分をどういう状況に置くべきだろうか?



自分を見つめないのは?

なぜ自分を見つめる時間を充分に持たないでいるのだろうか?

ネット上の情報で手軽に快不快を手に入れた方が楽だから。

そもそも自分とあるがままに向き合うのは不快極まりない感じがする。それは何故だろうか?

普段の生活、学校や職場で感じる、自分の不快、本音に蓋をして生きているから、だろうか?
それとも
周囲からの評価、レッテルから、自分はダメだからと決めているから、向き合いたくないのだろうか?
なかなか自分と深く向き合えないのは、2つあると思う。1つは、自己否定が降り積もって自分自身を見つめると不快感しか感じないからという場合。2つ目は、うわべだけの感情や反応に流されていた方が楽だし、自分で自分を育てて行くというのはとても面倒くさいことだから。

自分を見つめて、自分で自分を育てていかないと、いつまでも錨を一点に下ろせず、世間の波に流される心のままだろう。

「」の外へ出る

本能
お互いに欠けている所があるからこそ、
交わろうとするんだ。

異性に分かれていて、男女が互いに引かれあう
のは自然だ。

なぜ声を掛けるのに躊躇するんだろう?
相手が嫌な反応した時、自分が傷つくから。
周囲の目線が気になるから。
つまり、自意識が過剰だから。

なぜ自意識過剰なのか?
自分で自分を過保護にしてきたから。

なぜ自分を過保護にしたのか?
無気力で、ただラクに上手く
毎日をやり過ごして行きたかったから。

どうして、好奇心を失くし、
情熱を無くして、自失して
ただ答案の「」に正解するように生きていたから。
「」から踏み出して、常に自分の気持ちから
行動を起こすのだ、それ以外にない。

『コンビニ人間』感想

何が「正常」、何が「異常」?
「異常」というレッテルを周囲から貼られた主人公。その境界線のあちら側から、日常の会話に感じることを描き出すだけで、何て不安にさせられ、揺さぶられ、面白いんだろうと思った。
人間の一端を鋭く抉る小説だと思う。

普段の生活とは、表面上の「処理」でこと足りる人間関係が大半だ。
処理には世間で培ってきた「常識」が、相手を測る定規として用いられる。
なぜなら、
それが相手を自分の中で処理する上で
「手っ取り早く」、「簡単で」、「分かりやすい」から。すぐに自分の気持ちを「安心」に持って行けるから。
つまり相手を腹の底から、ありのままに「理解」しようとしているのではない、上っ面で「処理」しているのだ。

世間で言われている「普通」「当たり前」「常識」に全く共感できない人間は一体何処に行けば良いのだろう?
誰にでもあるはずの、無意識のうちに「普通」からこぼれ落ちた、自分にさえ顧みられることのない小さな違和感は、一体どこにいってるんだろう?

物語の最後に彼女は、この社会の末端である、コンビニの完全な部品となること、マニュアルに添い遂げることに活路を見い出した。
しかし、もし震災などで、社会のシステムが壊滅に陥ってしまった場合、そこで通用するコンビニのマニュアルなどない。
今の人間が、本能を優先させなくていいのは、この社会システムがあるからこそだ。マニュアルの通用しない世界では、彼女はどう“合理的に”生きるのだろうか?

他の感想やレビューを読んでみて、
頻繁にサイコパスアスペルガーといった表現を見かける。
いわゆる「病気」と「健康」を区分けする言葉はどんどん増えて氾濫していく一方だ。健康な人間の範囲は狭められていき、まるで一人一人が病気か健康か、事細かに精神分析され、マトリクス表に分類され、仕分けられているかのようだ。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で19世紀帝政ロシアでは、気狂いの人間は神がかり行者として、社会に内包されていた。自分は時代を遡れば遡るほど、健常者と狂人の区別は緩やかで、地続きであり、社会にそのまま内包されていたのではないかと考える。